寄稿 中村順子 (西高17回生) 2017年1月31日

「NPOをのぞいてみませんか」


中村順子(西高17回生、認定NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸理事長)

「NPOって何?」 さすが近頃では聞かれませんが、つい10年前まではそこいらで問われたものです。1995年の阪神淡路大震災におけるボランティア活動の盛り上りが、1998年にNPO法(特定非営利活動促進法)を誕生させ、以降NPO法人は増加の一途をたどり今では全国で51000、兵庫県では2100余りの法人が活動しています。高齢者ケア・こども・障がい者支援・若者サポート・環境保全・スポーツや文化の継承・まちづくり等々・・・幅広い生活課題を対象としており、おそらく身近に知り合いもおられることでしょう。
私は大震災を機に復興活動に入り、その延長でNPO法人を立上げ、現在ではNPOを応援するNPOつまり中間支援団体として神戸市を中心に活動を続けています。これまで300団体以上の立ち上げや運営に関ってきました。
 さてNPOの数は増えてはいるものの、この20年弱の間にどのような影響を及ぼしてきたのでしょうか。私のような創生期の第1世代は団塊世代が多く、社会の矛盾にも多少敏感かつ経済的ゆとりを背景に、災害や高齢者・こども支援等に時間や労力を注いできました。そのような道筋にやりがいや生きがいを見出し、実に自分らしい新たな領域を切り拓いてきたと自負しています。しかし個人生活に転じると、生活資金はパートナーが担い経済的に自立しているとは言い難く、多くは個人的なやりくりの範囲で生計がなされていたといえるでしょう。したがって社会的影響力も弱く、ましてNPOに就職するなど“物好き“に近い状況でした。
 ところがリーマンショック以降、成長期から成熟期に入った日本は、税収も落ち高齢化や雇用形態の変化による貧困の進行で、孤立状態に陥る人々が増え、従来の枠組みを越えてつながりあう関係性が求められてきました。本来、政府や行政または企業の福利厚生でカバーされていた領域は急速に縮減し、新たな手法すなわちNPOに代表される非営利ソーシャルセクターでの解決に期待が寄せられてきたのです。また主体的な生き方を求める層も増え、多彩な人々が活動するようになってきました。
2016年に発売された「N女の研究」(N女=NPOで働く女子、中村安希著)によると、30代の超キャリア系女子が年収半分以下に切り下げてもNPOに就職する選択をしているらしい。CS神戸でも常勤職員10名はすべて高学歴かつ海外生活経験者が多くを占め、高い実務能力を持ち、その上実生活と等身大の活動スタイルで実にいきいきしているのです。低所得に分類されようが、明らかに第1世代の価値観とは異なる伸びやかさで、時代の困難と向き合っています。
行政でもなく企業でもない非営利ソーシャルセクターが人間性の回復を実感できる場であることが理由なのかもしれません。 もちろんあまたのNPOがすべて高い質を有しているわけではありませんが、このような傾向がトレンドで終わらないよう、一度皆さんも身近なNPOをのぞいて、何か体験してみませんか。

<管理人より>

・中村順子さんは200X年秋の総会でテーブルスピーチをしてくださいましたが、今回新たに寄稿していただきました。

認定NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸のHPをご覧ください。

・中村順子さんのことを紹介してある兵庫県のHPふるさと兵庫・すごいすともご覧ください。


特別寄稿① 山下正範 (西高19回生) 2016年12月11日

(1)「寄稿に寄せて」 山下正範 (西19回)

 

同窓生の上月君から「貴君の有機農業活動について、山下農園の紹介も兼ねて、一筆寄稿ねがえないか」とのお誘いを受けました。3年前に書いた「雑草を目の敵にしないイネつくり」という文章が、僕の今のイネつくりに対する構えをよく表していると思い、それを投稿させてもらいます。で、その前書きとして、百姓するようになったいきさつなどを書いてみました。
 
最初に就職した仕事が、原付バイクに乗って農家を一軒一軒訪ねて歩いて、「現代農業」という月刊雑誌の年間契約を取ってまわる仕事でした。翌年には、継続して購読してもらうようお願いしながら代金を回収していきますので、富山の薬売りのような仕事でした。
社団法人農山漁村文化協会、学生課で求人募集を見たとき、その会社が出版社だとは全く知りません。「農村を訪ねて歩いて、調査研究をする仕事」と書いてありました。たぶん、もっと仕事内容について書いてあったのでしょうが、僕の頭には、それしかインプットされずに、単純に面白そうと思って飛び込みました。
5年は辛抱して勤め上げようと思い入社したのですが、7年目に支部から本部勤務に配置転換になり、その後コンピューター室に押し込められ、年貢の納め時だなと思い、9年で退社しました。
そのあといろいろあって、都落ちのような形で郷里の姫路に帰ってきたのが40歳の頃、あっちに頭をぶつけ、こっちに頭をぶつけのような感じでしたので、自分が農業を生業にするとは夢にも思っていませんでした。
太子町に井原豊さんというたくさん本も書いている篤農家がいて、かつての職場の同僚の編集者が、雑誌や単行本、ビデオの撮影などでよく取材に来ていました。そのうち我が家に泊まるようになって、僕も運転手兼取材助手でアルバイトするようになりました。
井原さんに出会って、こんな百姓ならやっても面白いなと思うようになりました。井原さんは、自分で直売所を持ったり、スーパー「ヤマダストア」で「井原豊の直売野菜コーナー」を持ったりしていました。今はやりの産直の先駆けをやっていました。
井原さんに出会って、少しずつ百姓を始めるようになっていったんですが、始めた当初は、無農薬有機栽培を特に志していたわけではありません。人間でも病気になったら薬を飲むのだから、野菜やイネも、最小限の農薬の使用はかまわないと思っていました。ところが、多品目少量栽培ですので、農薬を一斉散布するわけにいかず、めんどくさいのです。また、適期に農薬を散布しようとすれば、ていねいな観察が欠かせません。
めんどくさがり屋なもので、一度も農薬を使わないまま作っていますが、ほとんどの野菜は、農薬に頼らなくても、それなりにできますよと思っています。夏の果菜類(トマト、ナス、キウリなど)は、農薬なしで大丈夫。秋野菜は、早播きすると虫の餌食になりますが、お彼岸を過ぎてから種まきや定植をするようにすれば、虫の勢いもおとなしくなってきていて、それほど恐れることはないと思っています。
とはいえ、今年の秋は虫が多く、この時期(12月8日時点)に収穫しているキャベツや白菜は悲惨なものです。家の横の直売所で売っているので、それなりに買ってもらっていますが、市場に出荷すれば、見向きもされないことでしょう。

50代初めころだったかなあ、ある時「このまま死ぬまで百姓やってそうだあ」と思った時に、我ながらびっくりしました。それまで、ふらふら腰が定まらない生き方を続けていたものですから、、、、。百姓仕事の手伝いが嫌で、畔に寝転がって昼寝することだけが田んぼへ行く楽しみでした。そんなぼくが、農業関係の出版社に勤めるなんて夢にも思わなかったことですが、百姓を始めるなんて、夢の夢にも思わないことでした。

山下農園のHPで「0円」で販売している画像です。
山下農園のHPで「0円」で販売している画像です。

(2)「雑草を目の敵にしないイネつくり」 山下正範 (西19回)

(山下農園 姫路市北原328-4  Tel:080-5634-4790)

イネつくりを始めて、約25年になります。振り返ってみると、日本の稲作の大揺れの時代に百姓をしてたんだなあと思います。あの頃、百姓はまだまだ元気でした。田んぼでイネを見ながらの「勉強会」がよく開かれていて、声がかかればいそいそと出かけていました。先輩百姓のいきいきとした顔を見るのが楽しくて、元気をもらって家に帰っていました。
ぼくの25年のイネつくりの個人史を書いてみたいと思っています。それが、わが列島の稲作の「現在」を語ってくれるような気がしています。
時代は、「ガットウルグアイランド」という通商交渉が始まっていた頃でした。世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行なわれたものです。それに危機感を抱いた農家の間で、美味しくて安全なお米を作ろうという機運が出てきていた時代でもありました。
TTPという環太平洋戦略的経済連携協定が画策されている今と重なるものがある時代でした。
 
田んぼに吹いていた新しい風
その頃田んぼに吹き始めていた新しい風の一端を紹介しますと、九州の福岡県からは、宇根豊さんを中心に「減農薬のイネつくり運動」が始まっていました。「虫見板」という下敷きのような板をイネの株元に差し込んで、イネの株をパタパタとはたくのです。虫見板の上に落ちた虫たちを観察すると、じっと動かないのがウンカに代表される草食性の害虫。イネの茎や葉の汁を吸います。反対にちょこまか多動なのが、クモなどに代表される肉食系の益虫(天敵)です。害虫の数を数えて、イネに被害が出るレベルかそうでないか(殺虫剤を使うか使わないか)の目安にしていました。また、殺虫剤を散布すると、害虫と同時に天敵の益虫も同時に皆殺しにしてしまいますので、その反動(リサージェンス)で害虫が爆発的に増殖することもあるという危険性も指摘されていました。
滋賀県では、琵琶湖の水質汚染に対する危機感から、増収への欲から多肥に傾きがちなイネつくりを反省して、適期に必要最小限の肥料でイネつくりしようという運動が広がっていました。イネに限らず、作物は肥料をやりすぎると、体は大きくなるけれど、軟弱になって病気や害虫の被害にあいやすいのです。
また、全国的に「疎植」(反対語は密植)に取り組む動きがありました。百姓には少しでもたくさん取りたいという気持ちがあって、田植えの時にたくさん植えこみがちだったのですが、幅広く田植えをすれば、日当たり風通しがよくなって、イネが健康に育つよという方法です。具体的には、田植えの株間を慣行の15センチから30センチに広げます。日当たり風通しが悪ければ、イネが軟弱に育ち、病気や害虫の巣になりやすいけど、疎植にすれば葉や茎が固く健康に育つので、殺虫剤や殺菌剤などの農薬を減らすことができるし、収量も変わりません。
その疎植の代表選手が、姫路の隣町(太子町)の故井原豊さんでした。井原さんは「への字農法」という人を食ったネーミングのイネつくりを提唱され、全国的なブームを巻き起こしていました。当時の稲作の主流は「V字稲作」と言って、田植え前に元肥をしっかり入れて初期に必要な茎数をしたら、中干しという作業で強制的に田んぼを乾かして無駄な分けつ(株分かれ)をさせないようにしようという「管理的な」稲作技術でした。(「V字」とか「へ字」とは、肥料の効き方=葉色の濃さを表すグラフの曲線です)
それに対して、井原さんは、人の一生に例えたりしながら、初めちょろちょろ、中ぱっぱ、老後(収穫時期)はスーッと色がさめて黄金色に稲穂が輝くイネつくりが理想だとされました。井原さんの稲作理論は、「現代農業」という農業雑誌に連載されて、その後単行本やビデオにもなり、全国的に「への字」ブームを引き起こしました。その自由でのびやかなイネつくりは、それまでの元肥中心の固定観念(管理主義)を打ち壊し、イネつくりの楽しさを農家に呼び戻してくれました。


よちよち歩きで始まったイネつくり
田んぼにそんな風が吹いている時代に、ぼくのイネつくりはよちよち歩きで始まったのでした。
有線放送で「農家の皆さん、イモチ、モンガレ、ウンカの予防のため、農薬散布の時期です」と呼びかけるのを聞きました。1年目は、言われるまま、忠実に農薬散布をしました。
しかし次の年からは、言われるままでなく、自分の目で確かめてから農薬をやる様にしようと心を改め、それ以来一度も殺虫剤、殺菌剤を使わずにイネつくりができています。それらの農薬を使わなかったことによる目立った減収はありません。
日当たり風通しを良くして、人よりもたくさん取ろうという欲をかかなければ、つまり、肥料をやりすぎて軟弱徒長に稲を育てなければ、イネというのは丈夫なもので、無理なく無農薬で作れるものやなあと、しみじみ思います。
ただ、1993年の大冷害の年はひやひやしました。気温が上がらず、毎日のようにしとしととした雨の日が続きました。日照不足で、イネの葉っぱもひょろひょろと柔らかく、いもち病の病原菌がいちばん好む環境です。毎日のように観察に行ったものですが、イネの葉にいもち病の斑点がびっしりついています。しかし爆発的に広がるような感じではなく、一進一退の小康状態(人間でいえば微熱状態)でとどまってくれています。なにがなんでも無農薬という原理主義は好きではないので、いもち病の殺菌剤を購入して、準備はしていました。最終的には、農薬散布せずにイネの生命力に期待することに腹を決めました。
心悩ませたのが、隣の農家から「おたくが消毒しないから、うちの田んぼに病気が移ったやないの」と言われないだろうか、それが心配でした。気休めに、畔から食酢を霧状に振りかけて回りました。酢には殺菌力があり、自然農薬としてよく使われています。効くかなあと半信半疑でしたが、まあアリバイ作りでした(笑)
 
おそるおそる除草剤をやめました
その頃は、そうやって作られたお米を「無農薬有機栽培」として販売することができていました。
ところがCNPという除草剤に発がん性物質があるという新潟大学の研究が1993年に発表されて、有機栽培の農家に激震が走りました。ぼくも、ある消費者団体との集まりの席で「山下農園の米は無農薬有機栽培ですか?」と聞かれて、へどもどした記憶があります。
 
一番草、二番草、三番草と夏の炎天下に、田んぼの中を這いつくばる様にして草取りをしていた親の記憶が焼き付いていました。ものぐさの僕にあんな仕事はとても勤まりそうに思えません。まっぴら御免です。
しかし義を見てせざるは勇なきなり、と言います。おそるおそる1枚だけ除草剤をやめてみました。深水が効いたのか、カブトエビ君が頑張ってくれたのか、畔から見ている限りでは雑草は生えていません。ところが秋になってコンバインに乗って田んぼに入ってみてびっくり。イネの株元に、遅れて生えてきた小さなヒエがびっしり生えているのです。ぞっとしました。
その頃、我が師井原豊さんが亡くなり、追悼集(「井原死すともへの字は死せず」)を出すことになり、ぼくがその事務局をつとめていました。井原さんは全国的に著名な方で、各地の篤農家と交流がありました。井原さんの住所録をもとに、追悼集の編集のために連絡を取りまくっていました。その時「除草剤はどうしていますか?」という質問を必ずするようにしました。
聞いてみると、かなりの方が除草剤をやめるためにいろんな努力をされていることを知りました。なかでも福井県で30ヘクタール除草剤を使わないイネ作りをされている方がいて、びっくりしました。30ヘクタールとは想像を絶する面積です。
追悼集が出版されたらその記念祝賀会をやりなさいと勧められていましたので、その方の田んぼを舞台に、「おらが田んぼでも除草剤を使わないイネ作りはできそうか」というシンポジウムををやりました。定員100名のホテルに全国から250名もの参加者で、宴会場の大広間に雑魚寝して朝まで喧々諤々の熱気でした。そこに集まった知恵はすごいものでした。
田んぼの生き物を使った抑草法として、アイガモ、鯉、フナ、ドジョウ、カブトエビ、ジャンボタニシなどなど。
耕種的な方法としては、田植え後8センチ以上の深水にしておけばヒエは消えてしまうとか、代かきのやり方の工夫やEM菌などの微生物の活用とか、、、上げていけばきりがありませんので省略しますが、30以上の方法が発表され、意見交換されました。
シンポジウムの記録集(テープ起こし)2000部はあっという間に完売、この集まりは継続して毎年続けてやろうと、民間稲作研究所の主催で、その後3回全国大会が東京で開かれました。
 
インターネットで仲間と交流
「世の中ではパソコンというものが流行しはじめていて、インターネットという方法で自宅に居ながらにして交流できる」そういう情報がぼくにも伝わってきていた時世でした。3回目の全国大会の時(2000年)に、「インターネットを活用すれば、旅費や時間もかけずに交流できるそうだ。そういう交流の場を作りましょう。誰かやってくれませんか」と、勧めて回りました。しかし「HPは維持が大変よ、常時更新していないと読者が離れてしまうから」などと、誰も話に乗ってきてくれません。
かくなるうえは仕方がないと、東京から帰ってすぐパソコンを買い、無料のパソコン教室に通いました。(たぶん、糸井重里の「ほぼ日イトイ新聞」が出始めていた頃です)
頼りは全国大会に参加した300名あまりの方の名簿です。自由記入方式のアンケートを郵送してその回答を「除草剤を使わないイネ作り」というHPに掲載していこうと思ったのです。驚いたのは、郵送したアンケートの回答の大半がメールで返ってきたことです。クリックしてコピーすれば、HPに張り付けることができること、また何百通でも一斉送信できることを、姫路市水族館の市川さんから教えてもらいました。いやいや、その時はたまげました。なんせ全部自分で入力するつもりでしたから。
HPは見に来てくれるのを待つ身だけど、わざわざ見に来てくれるのを待つより、毎日のHPの更新内容をメールで送りつければ必ず読んでもらえるじゃないかと、「HPの宅配便」というのを始めました。送られてきたメール(実践報告)を、そのままメンバーに転送するだけです。のちに、それはメーリングリストというシステムと同じだよと知りました。
「HPの宅配便」を始めてから、「除草剤を使わないイネ作り」のHPは活況を呈するようになり、毎日2~3通は実践報告が行きかうようになり、最盛期にはメンバーは300名を超えました。メンバー登録しない人も入れれば、毎日500名近い人が見てくれていました。
 
除草剤は農薬の最後の砦
こう書くと順風満帆のように見える「除草剤を使わないイネ作り」ですが、それは机上の話。
実際は、雑草のしたたかさをいやというほど味わっています。田んぼに生える雑草は、縄文の昔からイネと共に生き続けてきました。そう簡単に消えるようでは、すぐに絶滅危惧種になってしまいます。
除草剤をやめた当初は、それまで使い続けてきた除草剤の恩恵で、田んぼの土の中の雑草の埋蔵量が少なかったのでしょう。1割程度の減収にとどまっていました。それが年を経るごとに、落とした雑草の種が田んぼに蓄積されていって、だんだんイネを作っているのか、雑草を育てているのかわからないような田んぼが出てきました。出口の見えないスランプ状態が長く続きました。
もちろん手をこまねいていたわけではありません。アイガモを除くいろんな抑草法にチャレンジしました。アイガモはね、小さな雛を入れるのがミソなんです。早苗より大きな2年生のカモを田んぼに入れると、苗をパクパク食べてしまうのです。だから冬になったら、ねんごろに葬って食べてやらねばなりません。家族同然に育ててきたアイガモの首を絞めて食べてやるのは、つらいものです。アイガモ農法で挫折した方の理由は、聞いてみるとほとんどそのようです。
ぼくの抑草法の基本は2回代かきでした。古来、代かきした田んぼに苗を植えています。それは、代かきで雑草を叩いて、真っ新にした田んぼに、大きな苗を植えて、ヨーイドンで雑草に負けないようにさせるためです。
2回代かき法は、それを進化させたものです。冬の間の耕起も浅く耕します。深いところにある雑草の種を掘り起こさないためです。眠った子は起こさないようにしようという発想です。
田植えの10日前に1回目の代かきをしますが、それも浅く浅くを心がけます。代かきとは、田んぼに水を入れて土を撹拌する作業ですが、雑草の種は水よりも重く、土よりも軽いので、代かきすると雑草の種は土壌の表面付近に堆積します。1週間ほどでほとんど芽を切ってきますので、そのタイミングで、表層を浅く代かきをして、生えてきた雑草を叩きます。雑草の種は、表面2~3センチの深さのものが発芽して、それより下の雑草は眠ったままのことが多いという調査研究があります。
表面の雑草を叩いて田植えして、眠った子は起こさないようにしよう。この方法は、かなり有効で、今でも抑草法の定番のひとつになっています。だけどね、現実はなかなか理屈通りには行ってくれないものです。雑草がというか、自然の方がはるかにしたたかでした。
2回代かき法と並行して、抑草の手立てをいろいろやりました。
深水にしてヒエを抑え、カブトエビが田んぼの泥の表面を泳ぎまくって雑草を浮かび上がらせてくれる、また田んぼの水を濁らせて濁り水の遮光効果で雑草の発生量を抑える、そんなカブトエビ効果にも期待しました。
田植え後に大豆や米ぬかを散布する方法もやりました。それなりに効果がありました。大豆には肥料の効果もあるし、サポニンという成分が雑草の発芽抑える効果を持つようです。しかし使用していた大豆がアメリカ産の遺伝子組み換えとわかり、やむなく断念。米ぬかも効果がありました。4年くらいやったかなあ。風に乗せて飛ばしたり、水と一緒に流し込んだり、米ぬかはかさばるし、大きな田んぼ全面に行きわたらせるが難しいんです。最後は、水で練って団子にして畔から投げ込む作戦をやりました。もくろみ通り、水面に落ちてからうまく拡散してくれました。が、ひじを痛めてしまって、これも断念。
雑草が生えてしまった時の保証のため、エンジン付きの歩行型の除草機を購入していました。昔の田押し車にエンジンがついているもので、爪が回転して、強制的に雑草を田んぼの中に埋め込んでいきますので、効果があります。だけどね、除草機を押して自宅に帰りつくと、足がこむら返りを起こして痙攣してしまうのです。不思議と車に乗っている間は大丈夫なのに、車から降りて長靴を脱ごうとすると、さあ大変、七転八倒の苦しみを味わいました。
そんな時、北海道で田畑の除草機械を開発している方から、乗用の除草機(「ティラガモ」)をモニター価格で提供するから使ってみないかと声をかけられました。たしか送料込みで30万円。迷いましたが、クラウンというピカピカの高級乗用車に乗せて貰った時に、おじさんから「いまどき田んぼの中を這いずり回っているのか」と言われ、買うべしと決断しました。
この機械はすぐれものでした。しかし、最初の2~3年は除草機ならぬ「除イネ機」でした。設定がまずいと、雑草だけじゃなくて、イネも踏み潰してしまうのです。乗りこなせるようになるのに、3~4年はかかりました。ある時「我ながら運転が上手になった」と悦にいっていて、はたと気が付きました。田植機と同じ車体を使っているので、タイヤ幅が同じです。植えた筋に上手に入ることができたら、植えるときにできた溝の上をタイヤが走っていくので、手放しでもイネを踏まずにイネの条間を走って行ってくれるのです。
 
天から声が届きました
このように悪戦苦闘の連続で、年々収量は減っていき、長ーいスランプ状態が続いていました。仲間の抑草も苦戦の連続だったようで、「HPの宅配便」という手作りメーリングリストの方も、だんだん情報交換が途絶えがちになり、メンバーも三分の一ほどに減っていきました。
そんな時、ぼくに天から声が届きました。発想の転換をうながす声でした。
「雑草を目の敵にするのは止めなさい。少々草が生えたっていい、雑草があってもイネがそれに負けずに元気であればいいのだ。イネが気持ちよく育つにはどうしたらいいか、それを考えなさい」というものでした。
深水にしろ、二回代かきや米ぬか活用法など、ぼくがやってきた「抑草法」は、多かれ少なかれイネの生育も抑えてしまっていました。特に2回代かきは、代かきをしすぎてその弊害の方が気になり始めていました
田植えされた早苗は二日目くらいで新しい根を出し始めますが、その頃雑草の方も芽を出し始めています。天の声は、泥の中を見なさいと言いました。「泥の中で、イネの根と雑草の根が主導権争いを始めています。早苗が気持ちよく根を出したくなるにはどうしたらいいか、それを考えなさい」と言いました。すくすくとイネが育って、イネの葉っぱが田んぼ全面を覆うようになれば、雑草はイネの日陰になっておとなしくなります。
ところが、イネミズゾウムシという害虫が多発すると、この虫はイネの根を食べて成長しますので、イネはいじけて大きくなりません。こうなると、雑草たちは、お日様をいっぱい浴びてすくすく育ち、イネの養分まで吸っていきますので、イネはいよいよいじけてきます。悪循環ですね。深水は、イネミズゾウムシが好む環境なんです。また深水にすると、雑草を抑えるだけでなく、稲の成長も抑えます。
天の声は、今まで抑草のためと思ってやってきた「深水」「二回代かき」をやめて、あっさりした代かきで、早苗が気持ちのいいと思える田んぼに田植えしなさい、田植え後深水をやめて、イネが気持ちよく感じる水管理に変更しなさと言いました。その代り、雑草が見え始める前に除草機を入れなさいと言いました。「上農は草を見ずして草を取り、中農は草を見て草を取り、下農は草を見て草を取らず」という言葉があります。
除草機は泥を撹拌して発芽しかけの雑草を叩くのですが、その時泥の中に酸素を送り込むので、2~3日するとその効果が出て、イネの葉色が出てくるんです。ところが、除草機は、田んぼの端(枕地と言います)で旋回するとき、タイヤで枕地の早苗を踏み潰してしまったりするので、除草機を入れるのがつい億劫になりがちでした。どうすれば踏むのを少なくできるか、植えた筋に迷いなく入るにはどうしたらいいか、除草機が入りやすいように、田植えの植え方も工夫して、変えました。
 
天の声を聞いてから、肩の力抜けたというか、気持ちが楽になりました。4年ほど前に、雑草もいっぱい生えたけど、でもイネも元気で1反当り8俵(480キロ)近くとれた経験があって、「雑草を目の敵にするんじゃなくて、雑草があってもいい、イネが負けなければいいんだ」。カッコよく言えば雑草と共存するイネつくりを考えることができるようになりました。
しかし、それでも現実は甘くはありません。去年は、7月下旬に「雑草もあるけど、イネも元気だ」と九州の百姓たちに褒められた田んぼだったのですが、高温続きで、早々と田んぼの肥料分が分解して、イネの登熟期には肥切れ状態(栄養失調)になってしまって、収量は史上最低の有様でした。うちの出来が悪い時は、まわりの百姓も出来が悪く、お米はやっぱりお天道様が作るもんだなあと思うのですが、それにしてもうちはことのほかひどい出来で、6月いっぱいで在庫がなくなり皆さんにご迷惑をおかけしました。「一歩前進だけど二歩後退」の年でした。
 
「一歩前進二歩後退」から「二歩前進一歩後退」へ
去年の痛い思いは、これからのイネつくりに、結果的に大きな恵みをもたらしてくれました。減収の一番の原因は、穂肥と言って、イネが穂づくりをするときに、畔から動力散粉機と言う機械で油粕のペレットなどを振りまいていたのですが、暑い盛りの作業で、ヘロヘロになってしまい、やめたんです。それが肥切れの原因でした。
今年は、その分元肥を多めに入れて、乗り切ろうと考えました。
イネにもいろいろあって、コシヒカリは省エネ型というか少ない肥料分でよく育ちますが、ヒノヒカリは「肥喰い」と言われていて、コシヒカリより大飯ぐらいの品種です。ヒノヒカリには、やっぱり穂肥が欲しいんだけどな、でも熱中症が心配だから、やっぱりやめようと思っていたら、「現代農業」という雑誌に、鶏糞を水で溶いて、水口から流し込むという体験が紹介されていました。なるほどと、200リットルのドラム缶の底に蛇口をつけて、水を入れるときに一緒に流し込んでみました。うまくいきました。全面に行きわたって肥料ムラはほとんど出ません。
鶏糞が流し込めるのだったら、米ぬかも水に溶かして流し込むことができるのではと思いつきました。これは心躍るような発見でした。
 
来年につながる発見
来年は、田植えした後に水で溶いた米ぬか液肥を、反当り60キロ流し込もうと思っています。米ぬかは分解するときに有機酸というのを出して、それが発芽しようとする雑草の根に当たって、根がいじけるのです。また、米ぬかが幕を張った田んぼの泥の表面がトロトロになって、次の新たな雑草が生えにくい環境になります。
米ぬかを使った抑草法は、自宅裏の紫黒米の小さな田んぼで毎年やっていて、うまくいっています。田植え後すぐに畔から米ぬかを振りまいています。すると、その後「田づり棒」という除草道具で目立った雑草だけこすり取っていくだけで、ほとんど雑草に悩まされることがないのです。
ただ、これは小さな田んぼだからできること、大きな田んぼにはとても無理だとあきらめていました。それが、水に溶くという方法で、簡単に米ぬかを行きわたらせることができそうです。
米ぬかで表面処理した田んぼに除草機で入れば、雑草の勢いが弱っているので、除草効果も期待できそうです。「米ぬか+除草機」という複合除草です。
「宝物を手にいれたぞ!」というような気持ちです。この「複合除草」のやり方は、苦労しているほかの仲間にも朗報になるはずだと、心は早くも来年に飛んでいます(笑)。
 
有機農業を応援してください
除草剤を使えば簡単です。ほとんど苦労なしにお米つくりができます。
今年1枚だけ、やむを得ず除草剤を使いました。10数年ぶりに除草剤を使いました。ほれぼれするくらいきれいな田んぼになっています。除草剤ってすごいなあとあらためて感心しています。
しかし、なぜ苦労するのがわかっていて、減収するのが目に見えているのに、除草剤を使わないのか?そんな仲間が、いっぱいいます。みんな偏屈で変わり者なのか?
いえいえ、それが、ぼくを含めて皆愛すべき人物ばかりです。
一筋縄ではいかぬ自然を相手にする、それが百姓というもんだとでもいうような「百姓魂」がどこかで働くのでしょうかねえ。
 
でもね、昨今頭を抱えているのが、そうやって苦労して作った無農薬有機栽培のお米が売れないんです。消費者の気持ちがお米から離れているような気がします。1993年の大冷害の年に、異常なコメブームが起きて、我が家の庭先にまで見知らぬ人がコメを買いに来ました。ところがその翌年から、潮が引くように、消費者の気持ちがお米から離れていったように感じられました。反動なんですね。不思議なものです。
そう遠くない将来、日本に食糧危機問題がやってくることは間違いないように思われます。ジャパンという国が、お金の力にまかせて食料をかき集めてこれる時代はいつまでも続くとは思われません。農業に関心を持ったり、就農を考えたりする若者は少なくありません。しかし作っても売れないと、そうした若者たちの心もコメ離れをし始めています。
農地はあっても、作る人がいなくなれば、農業はすたれます。いや、その農地すら、中山間地では暮らす人が離れ、原野に帰ろうとしています。日本の農業をあなたの財布で応援してください。
田んぼの生き物や雑草と共存するイネつくりに成功して、人並みに収量が上がるようになって、今度はお米が売れなくて困った困ったてなことになりませんよう、山下農園のお米も、応援よろしくお願いします。
                       
「井原死すともへの字は死せず」の追悼集は、姫路市立図書館に寄贈しています。(管理人注:書名にAmazonにリンクを貼ってます)
**「除草剤を使わないイネつくり」のHP   http://www.josou-net.sakura.ne.jp/
*** 山下農園のHP http://www.geocities.jp/yamasitanouen/

 

<管理人より>「みんなの投稿ー19」にも寄稿の追記として投稿していただいています。コメントも記載できます。